日本

日本映画産業のピーク

1950年代、日本映画産業はピークを迎えた。松竹、東宝、大映、東映、日活の5社が、新作を毎週2作品、年間で50週公開した。また、1947年の東宝の組合争議から誕生した新東宝も、製作、配給を活発に行った。日本映画の製作本数は年間500本を超え、各撮影所は活況を呈していたが、作品の質においても高い水準の作品が作られた。東宝の黒澤明監督、松竹の小津安二郎監督の作品は、キネマ旬報ベスト・テンの上位を占めながら、興行成績でも上位に位置していた。まだテレビは普及しておらず、遊戯施設も整備されていなかった1950年代、映画は国民の娯楽を一手に引き受け、公開すれば当たるという時代だった。

1957年から1960年にかけて、日本の映画観客数は年間で10億人を超えた。日本の人口が1億人に満たない時代であり、1人が年間に10回以上映画館に足を運んだ計算になる。そして、1958年から1961年にかけて、映画館数は7,000を超えた。小さな町にも映画館が2~3館はあった。

日本映画のピーク(観客数)
  • 1957(昭和32)年    10億9,890万人
  • 1958(昭和33)年    11億2,750万人
  • 1959(昭和34)年    10億8,810万人
  • 1960(昭和35)年    10億1,440万人
日本映画のピーク(映画数)
  • 1958(昭和33)年    7,067館
  • 1959(昭和34)年    7,400館
  • 1960(昭和35)年    7,457館
  • 1961(昭和36)年    7,231館

日本映画産業の斜陽のはじまり

1964年の東京オリンピックを控え、日本ではテレビが急速に普及しはじめた。そして、その普及と反比例して、映画産業の斜陽がはじまった。1960年に10億人を超えていた映画観客数は、1970年には2億5,480万人と25%まで激減した。また1961年に7,231館あった映画館は1970年には3,246館に減少した。この下降傾向は1990年代半ばまで続くことになる。映画館数では、1993年に1,734館とワーストとなった。この年は奇しくも日本で最初のシネコン、ワーナー・マイカル海老名が誕生した年でもあった。また、映画観客数では、1996年に1億1,960万人とワーストを記録した。

詳細項目

出典:掛尾良夫(キネマ旬報映画総合研究所取締役所長) キネマ旬報映画総合研究所