日本

日本映画産業の変遷

戦後の日本映画産業

1945年の敗戦後の日本映画産業は、GHQ(連合軍総司令部)の管理のもとにスタートした。GHQ内の民間情報教育局(Civil Information and Education Section)の中の映画演劇課(Motion Picture and Theatrical Unit)が管理しており、1945年9月22日に各社代表を招いて、映画表現における、“軍国主義の撤廃”、“自由主義の促進”、“平和主義の設定”を基本目標とするよう通達された。

敗戦の1945年8月15日から年末までに公開された日本映画は12本で、その多くは、戦中、アメリカ的としてお蔵入りになっていた作品だった。戦後に企画された日本映画第1作は松竹の「そよ風」(1945/佐々木康監督、佐野周二主演)で、並木路子が歌った主題歌「リンゴの歌」とともに大ヒットした。この頃、映画館の多くは戦災により半焼状態で、鉄骨が剥きだした館内には椅子も満足にない状態であったが、中国からの引揚者、復員兵などによる人口の激増と、解放気分から、多くの人々が映画館に押し寄せ、未曾有の活況を呈していた。

日本の映画産業は戦後の日本人に娯楽を提供して急速に復興した。そして、1951年、黒澤明監督の「羅生門」がヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。1950年代、日本映画は世界の映画祭で数々の賞を受賞、ピークを迎えた。

タイトル(年) 映画祭・賞 監督
羅生門(1951) ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞 黒澤明
地獄門(1954) カンヌ国際映画祭・パルムドール 衣笠貞之助
二十四の瞳(1954) ゴールデン・グローブ外国語映画賞 木下恵介
宮本武蔵(1955) アカデミー外国語映画賞 稲垣浩
純愛物語(1958) ベルリン映画祭・監督賞 今井正
無法松の一生(1958) ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞 稲垣浩

 


外国映画祭の輸入

戦後の外国映画の公開も、GHQの中にあったCMPE(Central Motion Picture Exchange)によって一元的に管理されていた。外国映画の新作はアメリカ映画だけという時代が1946年末まで続き、民間の会社による外国映画の輸入は許されなかった。しかし、他の国々からの強い要請もあって、ソビエト連邦、イギリス、フランス、イタリアからの新作が1947年から公開されるようになった。しかし、輸入業者は1国につき1社、代表者はその国の国籍を持つ者という条件がつけられ、日本人による輸入は許されなかった。なお、それぞれの公開は以下の通りである。

  • ソビエト=ソ連映画輸出協会 第1作「モスクワの音楽娘」1947年9月30日
  • イギリス=イギリス映画協会(BFI) 第1作「第七のヴェール」1947年12月2日
  • フランス=フランス映画輸出組合(SEF) 第1作「美女と野獣」1948年1月27日
  • イタリア=イタリア・フィルム 第1作「戦火のかなた」1949年9月6日

1951年、サンフランシスコでの対日講和条約の調印によって、日本は翌1952年4月28日からの主権回復が約束された。そして、アメリカ映画の一元的配給機関CMPEは1952年末をもって解体された。アメリカ映画は戦前のようにハリウッドの支社によって輸入されるようになった。また、日本人による外国映画の輸入も認められるようになった。

川喜多長政氏によって1928年に創立された東和商事合資会社(東和映画)は、戦前、日本の外国映画の輸入をリードしてきた。その川喜多氏は、いわゆる公職追放の立場にあり、映画の製作・輸入等への参画、マスコミへの発言を禁じられていた。川喜多氏に限らず、多くの映画人が軍国主義に加担したということで公職追放の立場にあった。川喜多氏の公職追放は1950年に解除され、東和映画によって1951年3月13日に「呪われた抱擁」(マルク・アレグレ監督、ミシュリーヌ・ブレール主演)が公開された。この時期、イギリス映画協会の作品を配給する会社として、日本人の経営によるNCC(ニッポン・シネマ・コーポレーション)が誕生するなど、次々と日本人による外国映画輸入会社が誕生した。

こうして、外国映画の輸入は認められるようになったが、外貨不足と日本映画産業の保護から、大蔵省とGHQによる輸入制限が行われていた。この輸入制限は“クォータ制”というもので、外国映画の輸入本数は日本映画の封切本数と同数とし、アメリカ映画、イギリス映画、フランス映画に割り当てられた。そして、輸入各社の割当は、前年の封切本数と配給収入の平均、つまり配給作品のパー・フィルムの配給収入が増えれば、割当本数が増えるというシステムだった。この“クォータ制”はその後、通貨割当、つまり買付金額の制限となり、優秀映画を輸入することでボーナスとして追加の割当が与えられるようになった。また、公開すればなんでも当たる時代だっただけに、“クォータ”が輸入業者間で売り買いされることもあった。しかし、この“クォータ制”は占領時代のアメリカ映画の優位を温存するものという批難が高まり、1958年の通常国会で野党から批判を受けたため、大蔵省の輸入割当は大きく変化した。それは、輸入実績の破棄、配給業者単位の割当などで、この方針転換の対応として1958年に外国映画配給業者協会(1959年に外国映画輸入配給協会/通称・外配協と改称)が誕生した。そして1960年以降、外貨事情の好転、輸入枠を撤廃しても日本映画を圧迫しないという見通しがたてば、外国映画の輸入は自由化されることになった。

出典:掛尾良夫(キネマ旬報映画総合研究所取締役所長) キネマ旬報映画総合研究所